2020年6月9日

『ファブル』22巻を読む。本当は昨晩買って読んだのだが、今日もパラパラ読みなおしたのでよしとする。第一部完としか言いようのない綺麗な幕引きで驚く。「いい話だったなあ」というよくわからない余韻が残り、たしかにいい話だったのでべつに間違っていないのだが、その余韻は物足りなさでもあるのかもしれない。といって、ほかの何かを期待していたわけでもないのだけれど。

最初に『ファブル』を読んだのはたしか3年ほど前の年末で、旅行でロサンゼルスを訪れていたときのことだった。稲泉さんからこの漫画が面白いのだと教わり、Kindleでまとめて買って一気に読んでしまったことを覚えている。せっかく旅行に来ているのだからよせばいいのに読み進めたい気持ちを抑えきれず街なかを歩きながらiPhoneで読んでいた。12月のロサンゼルスは暑くもなく寒くもなく、晴れていて日差しが強かった。ベニスビーチの近くにはGold’s Gymの本店があって、その脇を『ファブル』を読みながら通り過ぎる。そのあたりにはオーガニック食材を扱うスーパーがいくつかあって、ぐるぐる回っては見たことのないジュースを買って飲んでみていた。自分にとってこの漫画はそういった景色や感覚の記憶と不可分にある。ロサンゼルスのファブル。ファブルのロサンゼルス。

その年末はロサンゼルスで年を越した。大晦日からはダウンタウンの近くの日本人街にある古びたホステルに泊まっていて、鍵がゆるいから勝手に誰かが入ってくるんじゃないかと少し不安だった。部屋は昔の図書館みたいな匂いがして、落ち着きそうで落ち着かないからスーパーで買ったファブリーズを毎日噴霧した。年越しが近づいたら大きな公園に出かけて、いろいろな人が集まって騒いでいるのを見ていた。花火も上がった。サウンドシステムがありDJがいた。2018年になり、徐々に人がバラけていくのを見ながら自分も公園から出ようとすると、遠くの方のステージでバンドがWarの「Why Can’t be friends?」を演奏する音が聞こえた。いま思えば、あれはとても幸福で孤独な時間だった。

作品とはまったく関係ない物事によって作品のイメージが大きく規定されてしまうことは当の作品からするともしかしたら不幸なことなのかもしれないが、いろいろなことがただ同時にあっただけで結びついてしまうことこそが世界のいいところでもある。というかそういうふうにしてしか世界とか自分とかはないのかもしれない。『ファブル』22巻に感じていた物足りなさもまた、ロサンゼルスと自分とのつながりがどこかでひとつ途切れてしまったものによるものかもしれない。