2020年12月11日

國分功一郎・熊谷晋一郎『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』が事務所に届いて、Amazonのベージュ色の紙袋についた引き手をツーっと滑らすと中から本が出てくる。帯の巻かれた本を見ながら、初めて見るはずなのに、どこかで見たことがあるような本だなあと思う。ネットで書影を見ていたからだろうか。あるいは、以前自分がふたりを取材したことがあったからそう思っただけだろうか。と、そこまで考えて、帯に使われている写真が自分の撮ったものだからだと気づく。なんと。それなりに驚き、それなりに嬉しくなる。

傷の記憶は、まだ意味を付与されていない記憶といえます。予期を裏切る新しい経験=傷を傷まないものにするために意味を付与する方法はふたつしかありません。傷を、経験のなかで反復するパターンの一部にしてしまうか、一回きりの物語の一部にしてしまうかです。同じような出来事が何回も起きればパターンとして受け入れることができます。一方で、物語は一度しか起きなかったことを、他者を呼び込むことによって反復パターンの一例にしてくれる。
(中略)
つまり、アイデンティティには「永続性」と「連続性」のふたつがあるということです。変わることなく自分はこういう存在だと「パターン」として理解される永続性と、一回しか起きないけれど経時的に連続しているという連続性。そのふたつがアイデンティティを構成します。しかし、トラウマを背景にもつ依存症の方は、後者の物語的な連続性を失い、トラウマの記憶を他者と分有する物語の一例にできず古傷になってしまう。すると暇が訪れたときに痛みが蘇る。それが辛いので、もう一度自分に知覚として傷を加えることで、「いま・ここ」に身を置き、過去を遮断してしまおうとする。

「Human Nature, Human Fate 「中動態」から始まる新しい〈わたし〉」(『WIRED』日本版VOL.30)

懐かしくなって、以前構成した原稿を引っ張り出してくる。それは数日前に考えていた器と傷の話と似てもいた。似てもいた、も何も、自分のなかにもともとこの原稿の記憶があったのだから傷のことを考えたときにこれが思い出されるのは至極当たり前の話なのだが。アイデンティティとは物語なのだという言葉には、当時ひどく救われた。べつに何に困っていたわけでもなかったが。それから数年経って、再び自分は立ち戻ってきている。アイデンティティって物語なのかー。器の輪郭をなぞるようにして傷をたしかめ、それと同じような形をした傷に重ねていく。物語が生まれる。