2019年6月24日

「はなればなれ」とは、単に「離れていること」ではない。

ある時点でひとつの場所にあったものや一緒にいた人が離れるからこそ、はなればなれなのだ。最初から離れているものは、離れているだけでしかない。東京に住むわたしと世界のどこかにいる知らない誰かははなればなれなのではなく、ただ離れているだけだろう。一緒にいなければ、はなればなれにはなれない。

だから、「はなればなれ」が常に指向しているのは共にあった/いたことであって、離れていることそのものではない。それはノスタルジアと似ている。過ぎ去ってしまった時間を懐かしく思うように、かつて一緒にいたことを思い出す。わたしたちは常に思い出す。昔使っていたバッグから、よく食べていたお菓子から、壁に描かれた落書きから、風が葉を揺らす音から。あらゆることを思い出し、そしていまは離れてしまっていることに気づく。わたしたちははなればなれになることを運命づけられていて、生きていくなかで出会うほとんどのものや人と別れていく。それに逆らうことはできない。

2019年で10周年を迎えたロロによる『はなればなれたち』は、そんな「はなればなれ」を描いている作品だ。

思えば、ロロが過ごしてきた10年とは人々がはなればなれになった10年だった。ロロが生まれた2009年、わたしたちはあらゆる人々とつながりあえると信じていた。たとえば、インターネットによって。たしかにTwitterをはじめとするSNSは遠く離れた人々をつなげ、新たなコミュニティを生みだした。そこで生まれたコミュニティが社会を動かしうるほどのムーブメントを起こしたこともあっただろう。しかし、2010年代に入るとわたしたちは徐々にはなればなれになっていった。それもまた、インターネットによって。とりわけこの数年は世界的に分断が加速し、フィルターバブルもエコーチェンバーもフェイクニュースも常態化した。そんな状況に対する反省も行なわれているとはいえ、もはやインターネットによって人々がつながることなど到底信じられなくなっているかもしれない。

そんな時代のなかで、ロロは新たなつながりを生む出会いを描きつづけてきた。オフィシャルサイトのプロフィールに「既存の関係性から外れた異質な存在のボーイ・ミーツ・ガール=出会いを描き続ける」とあるように、彼/彼女らが立ち上げようとしてきたのは、異なる存在が出会い、共にいられる世界だった。とりわけ近年の数作においてその傾向は顕著であり、『BGM』や『父母姉僕弟君』、『マジカル肉じゃがファミリーツアー』といった作品は旅や音楽、家族などさまざまなフレームをいくつも使いながら、人間のみならず怪物や死者など多様で異なる存在が共にいられる可能性を探ってきた。そしてその試みは概ね成功していたといえるだろう。ロロが生み出す出会いの物語は、荒唐無稽でパワフルだ。彼/彼女らはしばしばポップカルチャーの力も駆使しながら本来出会わなかったであろう存在まで引き合わせ、異なる存在が共存できる場をつくってきた。それは人々の心を強く動かす、祝祭的な空間でもあっただろう。

しかし問題は、それでもわたしたちは現にはなればなれになってしまっているということだ。舞台の上で強烈な出会いが結実する一方で、それを観ているわたしたちはバラバラになっていった。仮に共にいられる場ができたとしても、わたしたちはすぐバラバラになってしまう。むしろこの10年のなかでは、祝祭的な空間こそがはなればなれを加速させてしまうことも多かったはずだ。人々は祝祭的な空間に集まり、熱狂し、去っていき、ついには忘れてしまう。その熱狂こそが人々のなかに分断を生んでもいたのかもしれない。ただ出会うだけではダメなのだ。ならば、はなればなれのわたしたちはどうすればいいのだろう?

『はなればなれたち』は、まさにそんな状況に向き合おうとする作品だといえるだろう。わたしたちは現にはなればなれであって、それは避けられない。わたしたちは出会っても別れてしまう。だからわたしたちはそのことを認めたうえで生きていかなければいけない。はなればなれなままで生きていくこと。その可能性。

森本華演じる向井川淋しいが所属する「劇団サンリオピューロランド」なる劇団の歴史を描いていくこの作品のなかで、人々は着実に別れていく。演劇部に所属していた部員は部長に愛想を尽かして去っていった。劇団を立ち上げてもそのメンバーはやがていなくなり、互いに会うこともなくなった。進学のために上京した女性は外界との交流を断ち、引きこもっていった。“フェイク”に覆われた世界のなかでは何もかもが不確かで、どこまでが物語でどこからがそうでないかも判然としない。舞台上はほとんどずっとどこか物悲しいムードに包まれていて、霧がかかっているように思える。

ばらばらになった人々はしかし、折に触れてつながり合う。宅配便で、マッチングアプリで、グラフィティで、そして演劇で。物語で。近年の作品と様相を異にしているのは、それが祝祭的なものではなく、救いをもたらすものでもないことだろう。彼/彼女たちはつながり、そしてまた別れてしまう。そこに僅かな痕跡を残して。街には落書きやQRコードが残され、俳優の動きはトラッキングデータとして保存される。痕跡は残され、ときに発見され、思い出されるが、常に役立つとも限らない。ヘンゼルとグレーテルが落としていったパンくずが、結局小鳥についばまれて役に立たなかったように。仮想空間のなかに残されつづけるあらゆる痕跡は、時代遅れのARゲームを起動させなければアクセスできない。「はなればなれ」になる前の痕跡はただ、仕掛けられたことを忘れた罠のように残っていくだけだ(思えば、2016年に上演された『あなたがいなかった頃の物語と、いなくなってからの物語』にも、そういった痕跡は残されていた)。

『はなればなれたち』がどこか物悲しいのは、誰も彼もが出会っているようで出会っておらず、出会っていないようで出会っているからだ。人々は物語のなかで出会うが、それは物語のなかでだけなのかもしれない。謎の草は一目惚れした鳥との出会いを何度も思い出し、思い出していることを忘れる。その出会いはあまりにも不確かで、バラバラな関係性を解消=解決することは決してない。彼/彼女らは出会っているが、現に出会っているわけではない。だからその出会いにはあらかじめ「はなればなれ」が刻み込まれている。

しかしそんな不確かな出会いのなかで、曽我部恵一演ずる「ぼく」のシーンに象徴されるような「歌」や「音」だけは異なったあり方で響いている。それは音楽が時間も空間も超越してしまうからだろう。ぼくが弾いたギターの音はいま鳴っていて、過去に鳴っていて、未来でも鳴っている。それは痕跡にならない。春の風が木の葉を揺らす音は、かつて鳴っていて、いま鳴っていて、きっと未来も鳴っている。わたしたちはそれを聴いて過去を思い出し、いまを感じ、未来を夢想する。時間が経ち、落書きは薄れ、ゲームが古くなったとしても、大地は昔もいまも同じように地鳴りを響かせるだろう。音楽は時間を超え、あちらとこちらをつなぐ。音が鳴っているかぎり、わたしたちはバラバラになれない。つまり、わたしたちは絶えず引き裂かれているし、引き寄せられてもいる。

はなればなれとはバラバラになっていることではないし、悲しむべきことでもない。だから「はなればなれたち」とは、バラバラなものを集めてつなぎ合わせることではない。はなればなれであること自体が、つながっていることなのだから。音楽が時間を超えて人々をつないでしまうように、それは微かにつながっている。この作品がどこか悲しくもバッドエンドには思えず、どこかうまくいっているようなのにハッピーエンドにも思えないのは、「はなればなれ」は常にその前もその先もあってエンドになりえないからだ。「はなればなれ」になることは、終わらせない/終われないことなのだ。そして現にわたしたちは、そういうふうにして生きている。

「はなればなれ」とは、単に「離れていること」ではない。

ある時点で離れているものがいつかまたひとつの場所に集まることが期待されているからこそ、はなればなれなのだ。二度と再会しないであろう人々は、離れているだけでしかない。もう二度と会わないであろう小学校の同級生とわたしははなればなれではなく、ただ離れているだけだろう。また会うことが期待されなければ、はなればなれにはなれない。

そう、「はなればなれ」には常に「期待」が織り込まれている。だから『はなればなれたち』は「期待」の物語だ。出会いから離れ、そのうえでまた出会うことを期待する物語。彼/彼女らは出会いを離れると同時に出会いに向かって進んでいく。出会いから離れながら離れられず、近寄りながら近寄れない。それは惑星の周りをぐるぐると回る衛星のようだ。再び出会えることを期待しながら、はなればなれたちは宇宙のなかをゆっくりと動いていく。宇宙はとてつもなく広く、いつ次に再会できるか予想もつかない。だが心配することはない。「はなればなれたち」は、はなればなれであるかぎり、これから何度だってまた出会えるのだから。