2020年11月18日

「おかえり」を言えない。記憶を遡ってみたが、最後に言ったのがいつだったか思い出せない。3年前だろうか。5年前かもしれない。20代前半に実家を出てから、自分のいる部屋に誰かが帰ってくることはほとんどなくなった。ルームシェアをしていたときでさえ、多くの場合は自分が深夜に帰宅するばかりで、「ただいま」を言うことはあったかもしれないが「おかえり」を言うことはなかった。もしかすると、10年以上口にしていないのかもしれない。

ざっと調べた限りでは、英語や中国語に「おかえり」や「ただいま」に相当する言葉はなさそうだ。I′m homeと言うことはできるが、多くの人は言わないらしい。HiとかHeyで済ます。汎用的な挨拶。ただいまやおかえりは帰宅のための挨拶だ。ただいまは帰宅を宣言し、おかえりは帰宅へ応答する。応答することが、帰られることだ。

諸機能の分散化によってホームがバラバラになっていくことは、長い間そこにあったはずの応答をなくしていくことでもあるかもしれない。もちろん、帰宅の宣言や応答は従来的な家族観を前提としていることも事実だろう。家族の待つ家。ホームも家族も解体されていくとしたら、かつてあったはずの応答はどこへ消えるだろうか。それがなくなることは、ホームがなくなっていくことでもあるのだろうか。

多くの人にとって、家とは住む場所だが、それ以上に、帰る場所でもある。誰もが家に帰る。「ただいま」。でも、誰もが“帰られる”わけではない。帰られること。帰られる場所としての家。「おかえり」。それは待つこととも迎えることとも異なっている。たしかにパートナーや家族の帰りを待つことはあるし、どこかから来た友人や知人を迎えることもある。帰られることとは、そのどちらでもありどちらでもない。

ある部族で青年が成人するにはライオン狩りでその力を証明せねばならないので、狩り場に二日かけて行き、狩りの後二日かけてもどる。酋長は彼らの成功を祈ってその間踊りを続けるが、問題は、狩りが終わった日から青年たちが帰路にある間も踊り続けるというのである。そのとき狩りはすでに終わって事の成否は定まっているのに、その幸運を祈るとはどうしてだ、というのがダメットの問いである。

大森荘蔵『時は流れず』

引用元の趣旨とはずれるけれど、かように待つことが祈ることでもあるならば、帰られることはその祈りを宙吊りにしている、というか、仮止めにしておくことのようにも思える。「おかえり」と言うことは、その宙吊りや仮止めを解除することなのかもしれない。いまのぼくは「おかえり」を言えない。だから、帰宅をめぐる祈りがずっとどこかで止まったままでいる。