2020年11月19日

実家の犬が死んだ。のはもう2カ月月ほどまえのことだった。家族のグループLINEで死を知らされた。茶色いティーカッププードル。画像が送られてくる。犬は毛布の敷かれた箱のなかで横たわり、目をつむっていた。もういつ死んでもおかしくない歳だったが、それなりに悲しかった。実家を出てからしばらく経ち、自分の日常から犬がいなくなっていたから実感はほとんどなかったのだが。

1カ月ほどまえに家族のグループLINEへ母から写真が投稿され、子犬を買ったことを知らされた。茶色いティーカッププードル。まだ生後数カ月だというそのプードルは手のひらに収まりそうなほど小さく、かわいかった。死んでしまった犬と似ているとも言えたし、あまり似ていないとも言えた。妹が犬に名前をつけた。思えば、死んでしまった犬に名前をつけたのも妹だった。家族はみな嬉しそうだった。

死んでしまった犬と似たような犬を買うなんて代替品扱いみたいで抵抗があるなと思ったが、すぐにその考えは頭から消え去った。犬種が同じだからといって代替品なはずがなく、二匹の犬が異なっているから、ではない。なんとなくそういうものなのだろうと思ったからだ。二匹はたしかに異なっていたが、家族のなかではなにかがつながっているような気がした。いま生きている犬を見ながら死んでしまった犬を思い出すことはほとんどないかもしれないし、家族はこの犬をこの犬として愛するだろう。でもそれはなんとなくつながっていて、同じようなことを繰り返しているのかもしれない。それは決して悪いことではないだろうと思った。

グループLINEには毎日のように家族たちから子犬の写真が投稿される。少しずつ成長しているように見える。成長すればするほど、どんどん顔つきは変わっていく。ぼくは犬の細かな顔つきの違いがわかるほうではないが、きっとこの犬らしい顔になっていくのだろう。同時に、死んでしまった犬のことを思い出す。いや、思い出していない。ただぼんやりとしたつながりの感触みたいなものだけが手元に残る。

死してなお残るつながりの尊さとか、忘れないことの重要性を説きたいわけではない。なんとなくつながってしまってることがなんとなく記憶を引き出してしまうこと。そのなんとなくさに身を放り投げながら生きていくこと。ぼくの体もまた二匹の犬をつなぐロープのうえに投げ出されている。片方の犬は眠っていて、もう片方の犬は遠くに走っていく。ロープが伸びて、たわみ、ぼくの体はゆっくりと沈んでいった。