2020年11月22日

大田区西馬込から墨田区押上まで続く都営浅草線はそのまま京成線へと接続し、千葉県佐倉へと向かっていく。たしか押上を過ぎたあたりから電車は地上へ出ていき、窓から見える町並みが少しずつ千葉県の雰囲気を帯びていくことがわかる。京成線に乗るときはいつも正月の気分だ。むかし年末年始に海外旅行へ行った際に成田空港へ向かったからだろうか。祖父母が千葉県に住んでいて正月に京成線に乗ったからだろうか。もっとも、祖父母は京成線沿いには住んでいなかったが。

あるいは単に今日がやけに晴れていて正月のような天気だっただけなのかもしれない。正月みたいな天気。晴れてて空気がなんとなく澄んでいるだけでぼくはそこに正月を感じる。銀座の歩行者天国でも。丸の内のビル街でも。隅田川沿いのジョギングロードでも。日曜の京成線はコロナウイルスのせいなのか単に利用客が少ないだけなのかほどよく空いていて快適だったが、空いているがゆえに体はなかなか京成線へとなじまなかった。

どんなところに行ってもその場に体がなじんでいく感覚はある。見知った場所に行くときでさえ、それはある。もちろん見知らぬ場所に行くときのほうがなじむまで時間がかかり、体の表面にオブラートがまとわりついたような違和感が残るのだった。京成線は東へ進んでいく。窓の外の景色を眺める。四ツ木。青砥。八幡。津田沼。なんとなく聞いたことある駅と聞いたことない駅が交互にあらわれ、自分の体が揺られながら京成線の箱のなかに収まっていく。印刷した書類を両手でもちトントンと机に落としながら左右上下が散らばらないよう整えていくように。たくさんの乗客がいるほうが自分の居場所が定まって整いやすい。空いた車両のなかでは自分の体も浮ついていて、駅ごとにトントン揺らされて動きつづけていく。

中学生のころにさいとうたかを『サバイバル』廉価版を読んで得た唯一の知識は、森のなかでイノシシに襲われないようにするにはイノシシが泥浴びをした場所で自分も転げ回り、全身に泥をつけて匂いを消すというものだった。イノシシじゃなくてクマだったかもしれないし、べつの獰猛な生き物だったような気もしてきた。いずれにせよ、その知識が役に立ったことは一度もなかった。京成線の中で揺らされながら、自分の体もまた、そういうふうにして匂いを消されているのかもしれない。日差しに照らされたシートが、ひんやりした手すりが、窓からうっすら流れ込んでくる空気の変化が、匂いを消していく。消毒するように。あるいは、下味をつけるみたいに。佐倉駅で電車をおりると、周囲の景色はすっかり変わっていて、自分の体もいつの間にか京成線になじんでしまっているようだった。