2020年12月1日

渋谷スクランブルスクエアから渋谷駅を通ってスクランブル交差点へ抜けると、昼の渋谷の風景が一気に目の中に入ってきて眩しく、眩しさから逃れるように交差点を渡って109に向かって進む。LUSHの前まで来るともう眩しくない。109のエントランスにはスクリーンが置かれていて、bibigoという韓国のメーカーから発売されている餃子のCMが流れていた。美味しそうに餃子を頬張る男性はパク・ソジュンというらしい。韓国の餃子のCMというのが妙に新鮮で、脳裏にパク・ソジュンの笑顔が焼きつく。

東急本店に向けて歩き出すと、ソウルを歩いているような気分に襲われる。109の冬のキャンペーンではNiziUが起用されていて、あちこちに大きなポスターが貼られていた。道沿いにはトッポギの店が看板を出していた。変化に変化を重ねて自分の知らない街になりかけている渋谷を見ながら、たとえばレイシストの人々はこうした変化をして日本が犯されていると思ったりするのだろうかと考える。それはなにか、自分の見知ったものが失われていく寂しさでもあるのだろうか。変わってしまうことをよしとしながらどこかで寂しさも感じている自分の気持ちは、何かをきっかけにして排外主義に変異しうるだろうか。数日前にNIKEが公開したCMは日本国内の差別問題に触れていて、ひどい反発を受けているらしかった。淀んだ川が目の前に流れている。川幅はさほど大きくないが、流れは速く、泳いで渡ることはできないだろう。橋も見当たらなかった。仕方なく座り込む。座ってる場合じゃないだろう、と遠くから声が聞こえてくる。立ち上がる。

東急本店の前を通るころにはすっかりソウルの気分が体の中まで染み込んでいて、あちこちにソウルの手がかりを見出そうとするのだった。カフェやパン屋、ラーメン屋。すべてを渋谷ではない場所にあるものと変換すると意外なほどにしっくりくる。何を見ても何かを思い出し、何を見ても何かを忘れ去る。空間に貼りついた記憶をせっせと剥がして、またべつの土地からもってきた記憶を無理やり貼りつける。松濤郵便局前の交差点を左折し、坂をのぼる。右手の建物にはBALENCIAGAのポスターがたくさん貼られていた。何かがどこかでオープンすることをそのポスターは告げていた。

自分にとってこの坂はとりわけソウルの風景を喚起した。ホンデの大通りから一本裏に入ったあたりの道や、アパレルショップが並ぶアックジョンの裏通り、あるいはまたべつのどこか。いくつもの街並みが明滅し、渋谷の風景に貼りつき、また剥がれていく。剥がれ落ちてしまわないように、急いでまたべつの何かを貼りつける。そんなことを繰り返すうちにユーロスペースの前まで来ていた。ここもどこかに似ているなと思いながら館内に吸い込まれていったが、自分がどこを思い出しているのかはまったくわからなかった。