2020年11月29日

いつの間にか冬が来ていたらしく自転車に乗っていると冷たい風が体を容赦なく刺してくる。のは冬が来たからではなく穴の開いたセーターを着ているからかもしれない。Feng Chen Wangの奇抜なセーターは重くて暖かく、同時に寒かった。体を包む熱気は穴から容赦なく抜けていく。

「緩衝材で覆われた自己」と対比されるのは「孔だらけの自己(porous self)」である。たしかに人間の身体には、いくつもの孔がうがたれている。口や耳や鼻、あるいは肛門、さらには皮膚に無数に拡がる汗腺などを通じて、いろいろな物質が人間を出入りする。ある意味で、人間の内と外とは、皮膚という境界線によって限界を画されつつも、このような無数の孔の存在によって、事実上半透過の状態になっているといえる。

テイラーのいう「孔だらけの自己」とはもちろん、そのような物理的な意味での「孔」ではないだろう。彼のいう「孔」とは、一つのメタファーに過ぎない。肝心なのは、外部からの影響がただちに自分のなかに浸透してくることである。「孔」があればどうしても外から何かが入ってくるし、自分からも抜け出てしまう。その意味で、「孔だらけの自己」とは、外からの影響を受けやすい、ヴァルネラブルな(脆弱で、傷つきやすい)存在なのである。

宇野重規『民主主義のつくり方』

「テイラー」とはカナダの政治理論家チャールズ・テイラーのことだ。彼は近代を通じてつくられた人間像を「緩衝材で覆われた自己」と呼び、現代社会を生きる人々は「孔だらけの自己」にノスタルジーを感じていると述べているという。「彼らは、外からの影響を断てば断つほど、自由になれると信じている。近代的個人は、世界から自分をより疎隔することの代償として、自由の感覚を得たといえるだろう」

穴だらけのセーターを着た自分は文字通り「孔だらけの自己」になっていた。体の上に、いくつもの通路が生まれる。いろいろなものが穴を通っていく。空気や視線が入り込み、熱が出ていく。穴だらけの弱さを心地よく思いながら、セーターの上にGORE-TEXが使われたジャケットを羽織る。風は通らなくなる。

数日前とある建築家に話を聞いたときも、“孔”の話になった。曰く、高気密・高密閉の建築はヨーロッパの気候に即したものであって、アジアの気候に合わせるならもっと空気が通り抜けるつくりのほうがいいのだ、と。それは至極まっとうな話に思えたが、一方では“孔”が多ければ多いほど管理コストやセキュリティ上のリスクも上がり忌避されやすいのだという。いろいろなものが穴を通っていく。風も、湿気も、リスクも。穴を塞ぐようにして壁をつくり、何かが内部にこもっていく。

自転車を事務所に置いてから駅に向かって、地下鉄に乗り込む。窓は開いている。新型コロナウイルスの感染を防ぐため、いまやあらゆる乗り物や建物で窓や扉が開け放たれていた。“三密”を防ぐために、換気する。いろいろなものが穴を通っていく。空気も、人々の話し声も、ウイルスも。その日は穴だらけのセーターを着て、穴だらけの地下鉄に乗っていた。

外部から影響を受けることを臆せず受け止められるのは、自分が強いからだろうか。“本当に”脆弱なら、穴を開けておくことなど受け止められないのだろうか。上からGORE-TEXのジャケットを着られないなら、冬場に穴だらけのセーターなど着ていられないのかもしれない。寒さ対策をしながらこんなセーターを楽しむことは、くだらないことだろうか。

どこにでも穴は開いている。皮膚にも、セーターにも、壁にも。穴を大きくしてみる。セーターは、網になる。網は、だらしなく伸びた糸の絡まりになる。壁に、窓ができる。窓はどんどん大きくなっていき、ただ骨組みだけが残る。脆弱さ。脆くて弱いが、かろうじて何かがつながっていること。上に羽織ったGORE-TEXのジャケットはGORE-TEXのなかでも上位の生地だそうで、雨粒は自然と滑っていったし、風はほとんど通さなかった。それはたしかに心強かったが、いまの自分にとっては寂しくもあった。