2020年12月8日

メラミン製の青い器とIKEAで買った脚付きの小さなグラスが、適当に積み重ねられている。その隣には台北の巨大なスーパーで買った茶葉のパックとFUGLEN COFFEE ROASTERSで買ったコーヒー豆が置かれていた。自分で挽くほうがいいだろうと思って買ったコーヒー豆は開封すらされておらず、よく考えれば事務所でわざわざ豆を挽いて飲むことが億劫なのは明らかだった。

このまえ話を聞いた人が、器を重ねることについて語っていた。お皿とお椀は単純には重ならないけれど、人はその場でなんらかの判断をくだしてテーブルに並んだそれらをうまい具合に重ねて運んでいく、そういうことと似ていると思うんです、と。何がそういうことに似ているかは忘れてしまった。本当はそちらのほうが重要だったのだが。聞いたばかりの話なのに忘れてしまうのは集中力を欠いていたからだったが、その話を聞いてぼんやりと傷のことを考えていたからだった。

ばらばらで本来重なり合わないはずのものから、似た形を見出し、便宜的に重ねていく。とりあえず持ち運べる程度にそれらはまとまり、ひとつの場所からまたべつの場所に運ばれると、またばらばらになる。それは、傷の扱い方と似ているように思えた。便宜的に重ね合わせていく。継ぐ。貼る。便宜的に癒えていく。

事務所の棚には、同じ形のグラスとお皿ばかりが並んでいた。自宅の棚には、さまざまな場所で買ったバラバラなグラスと器が積み重なっていた。引越して半年以上経つのにどうすれば食器をスマートにしまえるのかよくわからなくて、食器の積まれ方は日々変わっていく。家に何人かの友人が来て、そこまで多くない食器を片っ端から引っ張り出す。みんなが帰ってしまって、シンクの水切りカゴに食器が積まれている。グラスをひとつずつ取り出して、棚の中に収まるよう並べていく。形の違うお皿をバランスが崩れないよう積み重ねていく。手で触りながら器の形を確かめるように、傷を確かめる。