2023年7月30日

仕事で文章を書いていても文章の勘が鈍ってくるもので、とりあえず書く習慣を取り戻そうとしてみる。習慣的に書こうと思い立ってブログを立ち上げては止め、立ち上げては止め。高校生の頃からそんな感じで、気がつけば30代も半ばに差し掛かろうとしている。成長がないとも言えるし、成長しているとも言える。

今年の頭か春頃にChatGPTが一大ブームを迎えて以降、日々あれこれとした動向を追うようにしてはいるものの、考えれば考えるほど、自分の言語に対する感覚や情報処理の捉え方がほとんどChatGPTというか現在のLLM的なものと概ね一致しているという思いを強くしている。自分にとって文章を書くことや人とのコミュニケーションは大体が多次元ベクトルの処理というか“距離”の演算から成り立っていて、とりわけ仕事で自分が書くような原稿はかなりその性格が強い。

しばらく前から「原稿を書く」という表現に違和感もあり、「テキストを生成する」という表現の方が遥かにしっくりくる。これは比喩ではない……といっても比喩にならざるをえないのだが、思えば、長い間自分はそういうふうにして何かを書いていたのだろう。昔から自分の書いている/書ける文章は極めて再現性が高く、システマチックに多くの人が書けるものだと思っていたのだが、ChatGPTの登場によって結果的にその感覚が証明されたというか、なるほど自分はこういうふうに文章を書いていたのだなとChatGPTに教えられることになったのだった。

もっとも、だからといってChatGPTによって自分が代替されると思うわけでもない(無論、代替されることはあるだろうが)。自分がある種の執着をもっているのは(ChatGPTに足りないと言われる)記号接地みたいな部分であって、だからあちこち韓国なり台湾なりに出かけていたりするのだろう。これもまた、今年の生成AIブームによって改めて言葉を与えられたことというか、しっくりきたことのひとつだ。熱心に海外に出かけてメディアやSNS上に表れてこないものに触れることをリアル礼賛や現場主義に立たずにどう評価できるか。それは記号接地のようなものだったのだろう。

そういった形で今年はあれこれと考えていて、どうやら自分の情報やテキストの捉え方は必ずしも多くの人と共有されているわけでもないのだなと思った。それは興味深くもあったが虚しくもあり、他方で、人工知能を介してそんなことに気づかされるというのも、凡庸極まりないなとなにか滋味深い感情に襲われるのだった。