2020年6月12日

『ザ・キング』が終わってしまった。自分にとっては、いいドラマだった。すべての謎が解決されるわけではなく、作品としては乱暴な部分がたくさんあったように思うが、まあべつにいいかと思えた。ご都合主義的なものについても同じく。ストーリーのなかで起きることや偶然性の働き方、そのストーリーを支配するシステムの動きが偏っているように(多くの場合ストーリーにとって都合がいいように)思えるとき、人は「ご都合主義」といって批判する。偶然ここでこんなことが起きるとか、こいつにはこういうことが起きるのにあいつには起きないとか。ご都合主義という言い方が機能するのはわたしたちがみずからの生きる世界にはそんな“都合のいい”ことなどないと考えるからだが、その実この世界には都合しかない。というより、起きることのすべてが都合として編みなおされていくのがわたしたちにとっての世界なのであって、ご都合主義のフィクションのなかでは起きるべきに起きることが起きるが、現実の世界ではご都合などお構いなしにすべてが偶然生じるという対立は生じない。それは運命の話でもある。『ザ・キング』最終回の後半を観ながら思い出していたのは保坂和志が書いた運命にまつわる文章だった(チャーちゃんというのは若く死んでしまった保坂和志の飼い猫のことだ)。

「運命と聞くとすぐに「努力は無駄だ」「意志は無意味だ」と考える人がいるが、私は筋金入りの運命論者だったから、努力も意志もすべて肯定した。「結末が決まっている」ことは「結末がわかっている」事ではないのだから、わかっていない結末に向かって努力しなければいけない。それがどれだけ運命として決定している意志であろうとも、自我へのこだわりを嫌い、人間の主体性や能動性を限定されたものと考える、いまの自分の人間観がすでにこの時期に出来上がっていたとまでは言わないにしても、この人間観の素地くらいは十分に出来ていて、そこにラカンやニーチェの人間観が(わりと自然に)接ぎ木されたのではないかと思う。
(中略)
人間がまったく同じ人生を何度も繰り返すのだとしたら、私は次の人生でもチャーちゃんと同じように別れて、その後、同じように悲しまなければならない。それを何度でも繰り返さなければならない。ならば、私は今回のこの人生の中で、チャーちゃんにまつわる悲しみや死んで別れることについて解決しておかなければならない。前の人生で自分がどのように解決したかなんて知りようがないけれど、今回のこの人生でちゃんと解決しなければ、次の人生で解決することもできない」

保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』

『ザ・キング』は現実ともうひとつの並行世界を巡ってストーリーが展開していくが、終盤ではそのふたつだけでなく無数の世界が存在することが示されている。そこでは登場人物が同じようなところでしかし異なったふうに暮らしており、同じような仕事に就いて働いていることもあればまったく関係のない仕事をしていることもある。視聴者は、画面に表れるその人々がどの世界で生きている人なのかパッと見ではわからない。本来の世界と同じ世界に生きている人がたまたま見慣れない格好をしているだけなのか、同じ世界に生きていたが歴史の分岐によって異なる生き方をしているのか、単にべつの世界を生きているのか、全くわからない。そんな状況下でいくつもの可能世界が描かれているうちに、もはやそれらを区別すること自体が無意味に思えてくる。画面の中に表れるさまざまな登場人物は、姿形が同じなのであればどんな世界にあれどその人自身なのであり、たとえそれがどの世界で生きているのであっても、たとえ名前が違うのだとしても、その人がさまざまな仕方で生きているのだと思えるようになってくる。

これは先に引用した保坂和志の文章とずれてしまうのだが、『ザ・キング』最終回で描かれたのは、人間はまったく同じ人生を何度も繰り返すが、それはさまざまな可能性を同時に並行して繰り返し続けるということだ。それらはあくまで並行してあるのであって、ふつうはそれらを行き来できないしその存在を知ることもできない。ほかのあり方を知ることはできないが、それらは確かにあるのだ。その尊さ。自分が自分と違う名前でも違う生き方をしていても、それが自分だと感じられるし、それが自分であり得るということ。それこそが、この世界の豊かさなのだ。

2020年6月9日

『ファブル』22巻を読む。本当は昨晩買って読んだのだが、今日もパラパラ読みなおしたのでよしとする。第一部完としか言いようのない綺麗な幕引きで驚く。「いい話だったなあ」というよくわからない余韻が残り、たしかにいい話だったのでべつに間違っていないのだが、その余韻は物足りなさでもあるのかもしれない。といって、ほかの何かを期待していたわけでもないのだけれど。

最初に『ファブル』を読んだのはたしか3年ほど前の年末で、旅行でロサンゼルスを訪れていたときのことだった。稲泉さんからこの漫画が面白いのだと教わり、Kindleでまとめて買って一気に読んでしまったことを覚えている。せっかく旅行に来ているのだからよせばいいのに読み進めたい気持ちを抑えきれず街なかを歩きながらiPhoneで読んでいた。12月のロサンゼルスは暑くもなく寒くもなく、晴れていて日差しが強かった。ベニスビーチの近くにはGold’s Gymの本店があって、その脇を『ファブル』を読みながら通り過ぎる。そのあたりにはオーガニック食材を扱うスーパーがいくつかあって、ぐるぐる回っては見たことのないジュースを買って飲んでみていた。自分にとってこの漫画はそういった景色や感覚の記憶と不可分にある。ロサンゼルスのファブル。ファブルのロサンゼルス。

その年末はロサンゼルスで年を越した。大晦日からはダウンタウンの近くの日本人街にある古びたホステルに泊まっていて、鍵がゆるいから勝手に誰かが入ってくるんじゃないかと少し不安だった。部屋は昔の図書館みたいな匂いがして、落ち着きそうで落ち着かないからスーパーで買ったファブリーズを毎日噴霧した。年越しが近づいたら大きな公園に出かけて、いろいろな人が集まって騒いでいるのを見ていた。花火も上がった。サウンドシステムがありDJがいた。2018年になり、徐々に人がバラけていくのを見ながら自分も公園から出ようとすると、遠くの方のステージでバンドがWarの「Why Can’t be friends?」を演奏する音が聞こえた。いま思えば、あれはとても幸福で孤独な時間だった。

作品とはまったく関係ない物事によって作品のイメージが大きく規定されてしまうことは当の作品からするともしかしたら不幸なことなのかもしれないが、いろいろなことがただ同時にあっただけで結びついてしまうことこそが世界のいいところでもある。というかそういうふうにしてしか世界とか自分とかはないのかもしれない。『ファブル』22巻に感じていた物足りなさもまた、ロサンゼルスと自分とのつながりがどこかでひとつ途切れてしまったものによるものかもしれない。