2021年9月1日

引っ越した。部屋が広くなった。分不相応に広い物件だ。一人暮らしにしては多すぎる荷物を並べても、まだ余裕がある。家のあちこちに、手を伸ばしても届かないスペースがある感覚。大きすぎる洋服を着ているときのような。萌え袖。体が泳ぐ。部屋も家具も体もどんどん大きくなっていく。

数年前、「ホームフル」という言葉をいじくり回して家について考えていたころは、あまり自宅に帰っていなかった。昨年の頭に引っ越して、今年の夏にまた引っ越し、部屋は大きくなっていき、自宅で過ごす時間も長くなっていった。やっぱ歳とるとオフィスで寝るのは疲れるしコロナ禍で在宅時間増えるからホームフルとか言ってられないっしょ、と言えるのかもしれないが、同時に、これはこれでホームフルの亜種なのだなと思うようになった。

かつてオフィスに寝泊まりしデニーズで夜な夜な仕事をしていたのは、都市全体が自分の家になると思っていたからだ。ただ、都市が自分の家になるなら、自分の家を都市にすることもできるだろう。広い部屋に引っ越して仕事部屋を設け、オフィスを家に呼び込む。リビングを広くして友人知人を招きやすくすることは、これまで彼/彼女らと会っていた居酒屋やレストランを家の中に無理やり建てることだ。フードデリバリーサービスもまた、家の中に仮想的な飲食店をつくりだすだろう。家から出る機会が減って都市とのつながりが切断され、家の中に歪な都市をつくる。大きなテレビが映画館になり、ダイニングテーブルはレストランになり、浴室が銭湯になる。

もちろん、ベタにそういうことが起きるわけではないけれども。少なくとも自分にとって、家とはそういうものになり、それゆえに、過剰に大きな物件へ引っ越すようになった。比較的利便性の高いエリアを選んだのも、自分が暮らしやすいからではなく、他人に来てもらいやすい場所にしたかったからだ。複数人でシェアしているオフィスにさまざまな機能をもたせようとするのも、同じようなことなのかもしれない。都市を家にすることが難しくなったならば、あちこちの空間の中に都市をつくればいい。それは並行世界を増やしていくようでもある。新たな家を新たな並行世界にして、家そのものを手放していく。

インターネットは閉ざされた部屋の壁を壊してわたしたちを広い都市へとつなげていったかもしれないが、いま自分はむしろ無数の閉ざされた部屋の中へ都市を開いていこうとしているのかもしれない。それは同時代的でもあるし、時代錯誤でもあるだろう。真夜中の大手町のビル街でひとり缶ビールをあおるようにして、誰もいない広いリビングにひとり佇んでいる。部屋のあちこちに置かれたぬいぐるみだけが、ただじっとこちらを見ている。

2021年5月23日

自転車で移動するようになって、服装が変わった。チェーンに巻き込まれたら困るので太すぎるパンツは穿かなくなり、自転車をこいでいるうちに暑くなるので半袖で過ごすようになった。それまでは電車や建物の中が寒いと困るので、梅雨に入るまで決まって長袖を着るようにしていた。どうせ7〜9月は半袖しか着なくなるのだから少しでも長袖の期間を延ばそうとしていたのだと思う。強がりみたいなものだ。5月も半ばをすぎると日中はそれなりに暖かいが、夜は涼しい。自転車で走りながら、こんなふうに涼しさを味わうのは久々だなと気がつく。

2021年5月22日

オフィスの近くのとんかつ屋で昼食をとっている。盛り合わせ定食。一口カツとエビフライと生姜焼き。常連客と思しき男性が店主夫婦と話している声が聞こえてくる。夫妻の娘は今年大学に進学したが、いまはほとんどの授業がオンラインで行われているのだという。キャンパスに行けないので生徒同士の交流は少ないが、夫妻の娘はひとりだけ友達をつくれたそうだ。4月に何度かキャンパスを訪れたときに知り合ったその友達と話しているうちに、夫妻の娘はお互いの生年月日が同じことに気づいたらしい。すごいよね、そんなことあったら運命かと思っちゃうよね。店主はそう言って、しかしすぐに、まあ運命なんてないんだけどね、と付け加えた。

2020年12月11日

國分功一郎・熊谷晋一郎『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』が事務所に届いて、Amazonのベージュ色の紙袋についた引き手をツーっと滑らすと中から本が出てくる。帯の巻かれた本を見ながら、初めて見るはずなのに、どこかで見たことがあるような本だなあと思う。ネットで書影を見ていたからだろうか。あるいは、以前自分がふたりを取材したことがあったからそう思っただけだろうか。と、そこまで考えて、帯に使われている写真が自分の撮ったものだからだと気づく。なんと。それなりに驚き、それなりに嬉しくなる。

傷の記憶は、まだ意味を付与されていない記憶といえます。予期を裏切る新しい経験=傷を傷まないものにするために意味を付与する方法はふたつしかありません。傷を、経験のなかで反復するパターンの一部にしてしまうか、一回きりの物語の一部にしてしまうかです。同じような出来事が何回も起きればパターンとして受け入れることができます。一方で、物語は一度しか起きなかったことを、他者を呼び込むことによって反復パターンの一例にしてくれる。
(中略)
つまり、アイデンティティには「永続性」と「連続性」のふたつがあるということです。変わることなく自分はこういう存在だと「パターン」として理解される永続性と、一回しか起きないけれど経時的に連続しているという連続性。そのふたつがアイデンティティを構成します。しかし、トラウマを背景にもつ依存症の方は、後者の物語的な連続性を失い、トラウマの記憶を他者と分有する物語の一例にできず古傷になってしまう。すると暇が訪れたときに痛みが蘇る。それが辛いので、もう一度自分に知覚として傷を加えることで、「いま・ここ」に身を置き、過去を遮断してしまおうとする。

「Human Nature, Human Fate 「中動態」から始まる新しい〈わたし〉」(『WIRED』日本版VOL.30)

懐かしくなって、以前構成した原稿を引っ張り出してくる。それは数日前に考えていた器と傷の話と似てもいた。似てもいた、も何も、自分のなかにもともとこの原稿の記憶があったのだから傷のことを考えたときにこれが思い出されるのは至極当たり前の話なのだが。アイデンティティとは物語なのだという言葉には、当時ひどく救われた。べつに何に困っていたわけでもなかったが。それから数年経って、再び自分は立ち戻ってきている。アイデンティティって物語なのかー。器の輪郭をなぞるようにして傷をたしかめ、それと同じような形をした傷に重ねていく。物語が生まれる。