2020年12月9日

自転車に乗って夜の外苑西通りを走りながら、そういえば自分は移動することが好きだったのだと思いだしていた。いや、正確にいえば不意に思い出したわけではなくて、以前適当に書いたプロフィールに移動することが好きですと書いていたことを思い出し、自転車に乗って道路の上を流れながら、ああ、だから自分は自転車に乗っていたのかとふと気づいた。気づいたというか、そういうことにしようと思った。

六本木一丁目を通り抜けて坂をのぼり、人の多い六本木交差点を避けるようにしてミッドタウンの方へ曲がっていく。飲食店の立ち並ぶ裏通りを走っていたらバーの前で誰かがタクシーを待っていて、よく見てみたらデーブ・スペクターだった。デーブ・スペクターは、Twitterのアイコンと同じ顔をしていた。脳裏に焼き付いたその笑顔を振り払うようにして外苑東通りを渡って、裏通りに入って秀和六本木レジデンスの前を通って外苑西通りを目指すはずがうまく道路を渡れなくて、来た道を引き返して政策研究大学院大学の前に出る。高校生のころ誰かに誘われてこの大学の授業を受けにきたことがあった気がしたが、それがどんなものだったかはすっかり忘れてしまっていた。

大学から外苑西通りへと続く道は、緩やかにS字のカーブを描いている。高校生の頃は自転車に東京を走るのが好きで、なぜかよく六本木にも来ていた。幾度となく曲がってきたカーブを、今日も曲がり、でも、昔曲がったときのことはよく思い出せなかった。道に沿って並んでいる飲食店は様変わりしていたのかもしれないが、どの店にも入ったことはなかったので変わっているかどうかもわからなかった。一軒だけワインショップがあった気がする。いや、紅茶屋だったかもしれない。ずっとそこにあることは知っているけど、何なのかはわからない店。

墓地を沿うようにして流れているからなのか、夜の外苑西通りはいつも暗い。通りは外苑前に向かってまたS字を描いている。自転車のギアを重くする。加速する。道に沿ってゆるやかに曲がり、自分の体にほのかに重力がかかっていくのが感じられた。購入した作品を受けとるべく向かっていたギャラリーは、たしかカーブを曲がった先にあったはずだ。カーブを曲がりきり、青山通りに向かって道路が傾斜していくのが見えてきたあたりで、どうやら行き過ぎてしまったことに気づく。走るのが楽しかったからだろうか。自転車を止めて、iPhoneを開く。Google Map。検索ボックスにギャラリーの名前を入れる。シュルシュルと地図が動いてピンが落ちた先は、だいぶ前に通り過ぎてしまっていた場所だった。

2020年12月8日

メラミン製の青い器とIKEAで買った脚付きの小さなグラスが、適当に積み重ねられている。その隣には台北の巨大なスーパーで買った茶葉のパックとFUGLEN COFFEE ROASTERSで買ったコーヒー豆が置かれていた。自分で挽くほうがいいだろうと思って買ったコーヒー豆は開封すらされておらず、よく考えれば事務所でわざわざ豆を挽いて飲むことが億劫なのは明らかだった。

このまえ話を聞いた人が、器を重ねることについて語っていた。お皿とお椀は単純には重ならないけれど、人はその場でなんらかの判断をくだしてテーブルに並んだそれらをうまい具合に重ねて運んでいく、そういうことと似ていると思うんです、と。何がそういうことに似ているかは忘れてしまった。本当はそちらのほうが重要だったのだが。聞いたばかりの話なのに忘れてしまうのは集中力を欠いていたからだったが、その話を聞いてぼんやりと傷のことを考えていたからだった。

ばらばらで本来重なり合わないはずのものから、似た形を見出し、便宜的に重ねていく。とりあえず持ち運べる程度にそれらはまとまり、ひとつの場所からまたべつの場所に運ばれると、またばらばらになる。それは、傷の扱い方と似ているように思えた。便宜的に重ね合わせていく。継ぐ。貼る。便宜的に癒えていく。

事務所の棚には、同じ形のグラスとお皿ばかりが並んでいた。自宅の棚には、さまざまな場所で買ったバラバラなグラスと器が積み重なっていた。引越して半年以上経つのにどうすれば食器をスマートにしまえるのかよくわからなくて、食器の積まれ方は日々変わっていく。家に何人かの友人が来て、そこまで多くない食器を片っ端から引っ張り出す。みんなが帰ってしまって、シンクの水切りカゴに食器が積まれている。グラスをひとつずつ取り出して、棚の中に収まるよう並べていく。形の違うお皿をバランスが崩れないよう積み重ねていく。手で触りながら器の形を確かめるように、傷を確かめる。

2020年12月6日

「お兄さん、10分追加でいいでしょ?サービスですよ」

頭の後ろからおばさんが話しかけてくる。ぼくはマッサージ台の上に開けられた穴に顔を突っ込んでいて、後ろで何が行なわれているかはわからなかった。「追加でお願いします」と返してから、ちょっと考え、「でも早めに終わらせたいんです」と続ける。おばさんは少し困っているようだった。後輩の女性から勧められた韓国マッサージ店を訪れたはいいものの、予約時に誤って長時間のメニューを選んでしまい、次の予定があるから時間を縮められないかと相談していた。おばさんから渡されたグラスは韓国でよく見かける金属製のひんやりしたもので、冷たい水がなみなみ注がれていた。韓国マッサージかと思っていたが、店員はみな中国人だった。正規料金を払い、30分だけ施術時間を短くしてもらう。

幸か不幸か、ふだん生活していて肩や脚が凝っていると感じたことはほとんどなかった。「肩こり」という言葉や概念を知るまで人は肩こりを感じないと以前誰かが言っていた気がしたが、ぼくはすでにその存在を知っていたし、気づいていないわけでもないらしかった。単に凝らない。だからマッサージを受けても、それが効いているのかどうかよくわからない。ならば行かなければいいのにたまにふと思い出したように行ってしまうのは、なにか、自分の身体を変形させたいような気持ちがあるからなのかもしれない。凝っていないぼくの体は柔らかく、変形させてもさせなくても崩れていってしまっているようだったが。

この日受けたマッサージは、所謂リンパマッサージのようなものだった。所謂とかのようなとか言っているのは自分でも何がなんだかわからないまま選んでいたからだった。後輩の女性の言うとおり、この店はたしかに安く、薄暗く、用意されたパジャマのような服はダサかった。おばさんがカッサのような何かを使って、というかカッサ以外ありえないと思うのだが、カッサが何なのかわかっていないので判断がつかず、とにかく手足の肉を剥いでいくように小さな板のようなものを滑らせていった。

気持ちがいいのかどうかはよくわからなかった。リンパというのが何なのかもいまだにわかっていなかった。わからないことだらけだった。いろいろなところにリンパ節というのがあって、リンパが滞らないように流していくのがいいらしい。これはさっき「リンパ 流れ」と検索して一番上に出てきたページに書いてあったことだ。体の中を流れるもの。押したり撫でたりしながら、その流れは、なめらかになっていく。ぜんぜん凝らないぼくの体の中でもきっと何かが詰まっていて、おばさんはせっせとそれを流そうとしているのだろう。おばさんの施術は力強く、小さな板であちこちの詰まりを爆破していった。施術後の体を見ておばさんは「だいぶスッキリしてるよ」と満足げな表情を浮かべていたが、何が変わったのかはいまいちわからず、体のあちこちにあったはずの詰まりがなくなってしまった喪失感だけが手元に残されていた。

2020年12月5日

JR横浜線鴨居駅の北口を抜けると景色が妙に開けていて、それは目の前に建物がぜんぜん建っていないからなのだと気づく。田舎だからではなくて、駅のすぐ前に川が流れているからだ。鶴見川。鴨池橋と書かれた橋がかかっている。橋を渡ってしばらく歩いたところには、ららぽーと横浜があったはずだ。10年ほど前に、2回くらい行ったことがある気がする。いや、一度しか行ったことはなかったかもしれない。工務店や倉庫の集まるエリアに突然現れるららぽーと横浜には、「横浜」という地名から喚起されるイメージとのズレも相まって、どこか不気味な気配が漂っていた。たしかH&Mが入っていた。大学生のぼくはH&Mを訪れて、何も買わなかった。

鴨池橋は渡らない。駅前の広場を越えて階段を上がり、橋を渡らず川沿いを走る遊歩道へと流れる。遊歩道は二手に分岐し、ひとつは川と一定の距離を保ちながらまっすぐ伸び、もうひとつは河川敷に向かって降りていく。遊歩道はアスファルトで舗装されている。小雨が降っているからと履いてきたCamperのブーツにはGORE-TEXが使われていて雨が入り込んでくることはなかったが、ソールがつるっとしていて、舗装された坂道を歩いているといつも滑りそうになった。自然と足元に意識が向く。河川敷に下りて、遊歩道が途切れ、ブーツが土を踏む。足元に向いていた意識が地面に流れ出し、河川敷に広がっていく。視線を上げると、橋の下でみんなが焚き火をしていた。

細かいことはよく知らなかったが、鶴見川の河川敷では焚き火が許されているらしかった。距離をとって置かれたいくつかの焚き火台から、しゅわしゅわと白い煙が上がっている。風が吹く。体が煙に包まれて、マスクを少しずらして会釈する。忘年会に参加するために、鴨居まで来たのだった。2020年最初の忘年会は、昨今の情勢を考慮し屋外で開かれていた。毎年開かれているこの忘年会でしか会えない人もいて、忘年というよりは何かを忘れないように年に一度いろいろな人に会っているようにも思えた。

雨は止んでいたが、空気は湿気に満ちていて、ほとんど雨が降っているのと同じような天気だった。焚き火の煙が、鈍色の空へ広がっていく。鈍色と書いたが、それがどんな色なのかはうろ覚えだった。Googleの画像検索によって調べると自分が想像していたよりもそれは濃く、実際は鈍色なんかじゃなくてもっと薄い薄いグレーだった。焚き火の煙と同化してしまいそうなくらいの。

機材の都合上、16時には焚き火を切り上げなければいけないらしかった。日がだいぶ落ち始めている。残しても使いみちがないからと薪が次々と火にくべられ、煙は止まることがなく広がっていく。橋の下から立ち上った煙は遊歩道へ流れ、目には見えなくなり、匂いだけが風に乗ってさらに遠くまで届く。遊歩道に立っている見知らぬ人が、こちらをじっと見ている。