2020年11月24日

2月に引越して洗濯機を買おうと思ったまま月日が経ち、結局買うのが面倒になって定期的にコインランドリーへ出かける。自宅からコインランドリーまでは自転車の方が楽だったが、歩いても行けた。大きなランドリーバッグを肩から下げて、ぷらぷら川を越える。川を渡ってしばらく歩いたところに、コインランドリーはある。夜はだいたい誰もいない。ランドリーバッグから取り出した洋服を放り込み、1,000円札を機械に滑り込ませる。

洗濯機があったほうが便利だしべつに買えるのだから買えばいいのに買わないのは、コインランドリーにいる時間が意外と好きだからだろう。洗濯と乾燥で56分。かばんからiPadを取り出して、Kindleで本を読む。コインランドリーにいる時間はちょうどいい読書の時間になっていった。ぐるぐる回っている洗濯機を横目に、視線をiPadの上で滑らせる。読書が進むこともあったし、ぜんぜん進まないこともあった。たまに近くの自販機で缶コーヒーを買って、外で飲む。誰も通らない。コインランドリーの向かいにはどこかで名前を聞いたことがある会社の大きなオフィスが建っていて、コロナウイルスのせいでリモートワークへと切り替わったのか、そこから誰かが出てくるのを見たことはなかった。建物の前に置かれた大きな観葉植物は誰が世話をしているのだろうか。

コインランドリーの時間が好きなのは読書にちょうどいいからではなくて、それが単純に待つ時間でしかないからだった。待つことは苦手だった。いつも不安だった。だからすぐにほかのことをする。コインランドリーにいるときだけ、待つことを受け入れられる。洗濯物がぐるぐる回って、残り時間が少しずつ減っていくのを見ている。なぜコインランドリーだけが例外なのかはわからなかったが、ここでなら何かを待っていられるのだった。

残り時間がゼロになると画面には「CD」と表示され、乾燥機によって熱くなった洋服が少しずつ冷まされていく。クールダウン。この時間がどれくらいあるのかいまだによくわからないが、Tシャツやパーカーの熱が徐々に抜かれていく時間は気だるく、ゆっくりと地面に向かって落ちていくような動きを連想させた。画面の表示はCDからENDに変わる。ドアを開けて、洋服を取り出す。クールダウンされたといっても乾燥機にかけられた洋服はまだ熱くて、一つひとつをたたみながら熱がどこかへ抜けていくのを期待している。じんわり温かいTシャツはなんだか生きているみたいで、不気味だなと思いながらランドリーバッグに放り込んでいった。

2020年11月23日

空が明るくなり鬱蒼と葉叢をしげらせる熱帯の樹木に宿る鳥たちがやかましいほど鳴きはじめる時間帯が、ぼくは好きだ。最初はまだ灰色としか呼びようのない曖昧な色調からはじまって、太陽が昇るすなわち地表のわれわれがいっせいに手をつないで東にむかって倒れこむにつれて光がぐんぐん明るく強くなりそれに正比例して空は青を深くして浮かぶ雲の白さは眩く世界は光にみちてそのオーケストレーションの壮麗なすばらしさが今日もまたいい日になることを約束し鳥たちは、鳥の人々は、生命の全体をそのままに肯定するように騒ぎ怠惰なわれわれの心にも今生きなければ生きるときはないから今日を早くはじめなさいと呼びかけてくる。

管啓次郎『ハワイ、蘭嶼』

そんなふうに朝を迎えたことはほとんどなくて、だからこの文章が妙に気になってしまったのだろう。部屋の外ではここ東京でも“光がぐんぐん明るく強くなりそれに正比例して空は青を深くして”いるのかもしれないが、カーテンを閉め切っているからかその様子はまったく伝わってこない。この部屋は面積に比して窓だけがやたらに大きく、たしかに日は目いっぱいに入ったが、その分窓からどんどん冷気が入り込んでくるのだった。冬になるとカーテンを閉める。ネットで注文した遮光・遮熱カーテンはそれなりに優秀だったようで、カーテンを閉めていると部屋はそこまで寒くならなかった。

窓際のサボテンが枯れるのを恐れて少しだけカーテンを開くと、気持ちのいい光が棚の上のサボテンへ差し込んでくる。と同時に、ひんやりとした空気が窓から広がっていくような気もする。トレードオフ。日差しを受けたならば熱だってもらえる気がするのに、代わりに熱を差し出しているような感覚。

カーテンを閉め切っていると自然と窓を開ける機会も減って、なんとなく空気がこもる気もするが同時に空気の流れがよく見えるようになってくる。キッチンで、お風呂場で、トイレで換気扇が回っている。空気が出ていくが、熱は出ていかない。いや、実際は出ているのかもしれない。部屋の空気はあまり動かない。リビングに振りまいたルームフレグランスは、ゆっくり広がって、そのまま床に向かって落ちていく。匂いだけが残る。LOEWEの、Ivyという香り。それがアイビーの香りなのかはわからなかったが、ほんのり甘い匂いだった。部屋の中を甘い匂いが締めていって、自分で振りまいておきながら、少し嫌な気持ちになる。思い切って、カーテンを開いて窓を開ける。夜の冷えた空気が部屋の中に吹き込み、住宅街の匂いが入り交じる。湿った、コンクリートの匂い。もわっとした空気が外へ流れていき、部屋の気温が一気に下がったような気がした。

2020年11月22日

大田区西馬込から墨田区押上まで続く都営浅草線はそのまま京成線へと接続し、千葉県佐倉へと向かっていく。たしか押上を過ぎたあたりから電車は地上へ出ていき、窓から見える町並みが少しずつ千葉県の雰囲気を帯びていくことがわかる。京成線に乗るときはいつも正月の気分だ。むかし年末年始に海外旅行へ行った際に成田空港へ向かったからだろうか。祖父母が千葉県に住んでいて正月に京成線に乗ったからだろうか。もっとも、祖父母は京成線沿いには住んでいなかったが。

あるいは単に今日がやけに晴れていて正月のような天気だっただけなのかもしれない。正月みたいな天気。晴れてて空気がなんとなく澄んでいるだけでぼくはそこに正月を感じる。銀座の歩行者天国でも。丸の内のビル街でも。隅田川沿いのジョギングロードでも。日曜の京成線はコロナウイルスのせいなのか単に利用客が少ないだけなのかほどよく空いていて快適だったが、空いているがゆえに体はなかなか京成線へとなじまなかった。

どんなところに行ってもその場に体がなじんでいく感覚はある。見知った場所に行くときでさえ、それはある。もちろん見知らぬ場所に行くときのほうがなじむまで時間がかかり、体の表面にオブラートがまとわりついたような違和感が残るのだった。京成線は東へ進んでいく。窓の外の景色を眺める。四ツ木。青砥。八幡。津田沼。なんとなく聞いたことある駅と聞いたことない駅が交互にあらわれ、自分の体が揺られながら京成線の箱のなかに収まっていく。印刷した書類を両手でもちトントンと机に落としながら左右上下が散らばらないよう整えていくように。たくさんの乗客がいるほうが自分の居場所が定まって整いやすい。空いた車両のなかでは自分の体も浮ついていて、駅ごとにトントン揺らされて動きつづけていく。

中学生のころにさいとうたかを『サバイバル』廉価版を読んで得た唯一の知識は、森のなかでイノシシに襲われないようにするにはイノシシが泥浴びをした場所で自分も転げ回り、全身に泥をつけて匂いを消すというものだった。イノシシじゃなくてクマだったかもしれないし、べつの獰猛な生き物だったような気もしてきた。いずれにせよ、その知識が役に立ったことは一度もなかった。京成線の中で揺らされながら、自分の体もまた、そういうふうにして匂いを消されているのかもしれない。日差しに照らされたシートが、ひんやりした手すりが、窓からうっすら流れ込んでくる空気の変化が、匂いを消していく。消毒するように。あるいは、下味をつけるみたいに。佐倉駅で電車をおりると、周囲の景色はすっかり変わっていて、自分の体もいつの間にか京成線になじんでしまっているようだった。

2020年11月20日

渋谷駅東口の大きな歩道橋を歩いていた。晴れていて、やけに風が強い。大きなコートを着て大きなバッグをもっているせいか、体が目いっぱいに風を受ける。少しよろける。風から逃れるようにして歩いているうちに、明治通り沿いに下りるはずが渋谷ストリームのなかに吸い込まれてしまう。エスカレーター脇の看板には「グーグル」と書かれていた。この上にオフィスがあるらしい。イベントホールやトイレと同じようなウェイトで書かれたその名前は、なにかに擬態しているようにも見えた。

渋谷ストリームは4〜5回訪れたことがある気がしていたが、何度来てもどこからどこへ抜けられるのかわからず、というか自分にとっては渋谷全体がすっかりどこからどこへ抜けられるのかわからない街になっていた。通用口のような場所に出て、工事現場の脇を通って高架下を抜ける。桜丘。坂をのぼる。少し汗ばむ。

急な坂をのぼるときはいつもソウルの住宅街を思い出す。ソウルは坂だらけだ。傾斜のきつい道では自然と歩く速度が落ち、ゆっくりと景色が流れる。というか流れない。流れるはずの景色は止まり、一歩ずつ踏み出すごとに景色がズレてコマ送りのように動いていく。坂をおりるときも景色は流れない。セロテープを引き出すように、景色を引っ張り出し、止め、また引っ張り出す。ソウルの街の景色は、そういうふうに細切れにされていた。パッチワークのような景色。iPhoneで撮った下手くそなパノラマ写真のように、一部は引き伸ばされていて、またべつの一部は縮まってしまっている。

もっとも、いまの渋谷はそれ以上に細切れで、パッチワークどころかつながってさえいなかった。パルコから宇田川町におりていく坂が、109の通ずる渋谷駅の地下通路が、東急本店から神泉に向かう道が、ばらばらな景色がそのまま地べたに落ちていた。数ヶ月ぶりに訪れた桜丘は変わったのか変わっていないのかもわからず、地べたに張り付いた景色がかつて自分の見たものなのかどうかも思い出せなかった。

マンションが立ち並ぶ坂をのぼって、少し空が開ける。道はゆるい起伏を繰り返しながら旧山手通りへとつながっていた。自分の体が、道に沿って通りまで引き伸ばされていく。失敗したパノラマ写真をもう一度撮りなおすように、ゆっくりと景色をなぞりながら通りに向かって歩く。iPhone 12 ProにはLiDARが搭載されていて、素人でも3Dスキャンを楽しめるらしい。ぼくは間違えて普通のiPhone 12を買ってしまっていて、そのことをいまも後悔している。